N/OH

2022/04/01 13:21




志穂:松本の和家具作りが戦前から衰退していったのはなぜなのでしょうか。


池田:松本は特に座卓が特産品で、東京あたりまで出荷していました。でも、生活様式の変化とともに需要も変わっていき、売れなくなってしまっていたんです。衰退した理由が需要の変化だったわけですから、これからの時代の人に使ってもらえるものを作らなければならない。だとしたら洋家具を勉強しようという話になり、テーブルや椅子を作ることになりました。ところが、それまでは和家具を作っていた職人がテーブルや椅子を作ろうとしても、できあがったのはタンスのような椅子ばかり。椅子がどうやってできているのかまったくわからなくて困って柳宗悦先生たちに相談しても難しい話しかしてくれない(笑)。


マーティン:先生方も椅子を作ったことがあるわけではないですしね。




池田:そうですね。とはいえ、民藝の先生方はできる限り協力してくれて、「こういう椅子があるから勉強したら」と見せてくれる。でも洋家具の構造って、和家具の構造とまったく違うんです。たとえばウィンザーチェアーの座面は座刳り(ザグリ)といって、座板を削ってあります。それによってお尻のあたりを柔らかくするんですね。でも和家具には座刳りなんていうものはない。また、洋家具は和家具と違って斜めに構造体ができているのも難しい。そんななかでラッシの椅子が構造的に、和家具の職人にもわかりやすいことに気づくんです。ラッシの椅子はヨーロッパの庶民に長く愛されてきたもので、構造が直角に組まれているんですよね。


直人:ラッシの椅子は座面が草で編んであるものですよね。作り方はすぐにわかったのですか?



池田:わかりませんでした。何で編んであるんだ、どうなっているんだって悩んだようです。すると柳宗悦先生と一緒に民藝運動をやってらっしゃった陶芸家の濱田庄司先生が、「池田さん、うちにいっぱいあるから、それを持っていってバラバラにして勉強しなさいよ」と言ってくれてね。そうやって助けてくれたんですよね。


直人:木も最初は曲がらなくて困ったそうですね。


池田:ウィンザーチェアは曲木を使いますが、木を曲げる方法はお弁当、曲げわっぱの知識ぐらいしかない。どうやらお湯に入れたら曲がるらしいとわかったので、鉄鋼屋さんにドラム缶を溶接してもらって湯を沸かして薪を煮て試した。そうやって、皆さんに助けてもらいながら全部独学で、作り方を研究したんです。


直人:焼き物などは組合があって、そこに職人さんが在籍していて、問屋さんがあるという仕組みがありますが、木工職人さんの組合はなかったのでしょうか。


池田:昔はあったのかもしれません。でも当時は完全に崩壊して、みんな一人親方でやっていたんですよ。職人さん達は今よりもはるかに経済的に困窮していました。真っ当な仕事をしても真っ当にお金を払ってもらえない。買い叩かれ続けた結果、「腕がいい」というのは、いい仕事をする人ではなく、適当にやってもごまかせる人のことを言うのだという悪い認識が、職人さん達に根付いてしまっていました。ところが、民芸の世界というのはそういうものではない。真っ当に真面目に、誠実に仕事をしなければいけなかった。職人さんの意識を変えていくのが、最初は一番の苦労だったようです。


志穂:職人さんの地位がとても低かったんですね。


池田:低かったんです。勉強もできないし、農家の生まれでもない。箸にも棒にもかからないから家具屋になる。そういうものだったんです。私が会社に入った当時も、小学校しか出ていない職人さんは何人もいましたよ。そういう人たちが人生を全うできる仕事は、職人しかなかったんです。




志穂:家具のことをあまり知らないのでお聞きしたいのですが、ごまかす仕事というのはどういうものなんですか。


池田:職人さんが自分の稼ぎを増やす術は、たくさん作る方法しかありません。働く時間には限りがありますから、一つのものをなるべく早く作れるように、手を抜くことがある。たとえば木を組む時に開ける「ほぞ」を約束通り深くしなくても、組み上がって外から見たらわからない。だから「ほぞ」を浅くしたり、まったく組まずに作ってしまったりする。それがごまかす仕事です。


志穂:買い叩かれた結果、職人さん達は少しずつ小さな、外から見えないような仕事を抜いていくようになってしまったんですね。


池田:そうなんです。ただ、柳先生が教えてくれたのは、どんな人でも仕事をごまかさずに、真っ当に誠実に突き詰めていけば、最後にはちゃんと光るものが生まれると言うことです。職人さんたちが虐げられたり蔑まれたりするなかで、それでもこれしかできないからと、その仕事に縋って真っ当に仕事に向き合っていくと、ある種、純粋になっていく。どうせ安い賃金しかもらえないとしても、できあがった成果物をどなたかが喜んでくれることは心の支えになっていく。そして少しでもしっかりと作ってやろうと思う。誰かの役に立つというのは幸せなことですからね。そういう綿々とした積み重ねの中に、作る人の思いが宿る。そこに本来のものづくりに必要な「尊さ」が生まれるんだよと、柳先生はおっしゃったんです。誰が創作したわけでもない、自然と生まれる美しさがそこに宿るんだ、と。そういう、ある意味で救いのある世界がものづくりの世界だったんです。


マーティン:池田三四郎さんたちはそこに意識を戻す必要があったんですね。


池田:柳先生に言われなくても、職人さん達は本来はそれを地で行っていたんですよね。それを掘り起こして、もう一度いい仕事を職人さん達ができるようにしながら、過去の人たちが積み重ねてきた想いの積もるものを未来へと届けようと言うのが民藝運動だったんです。


直人:洋家具の作り方を独学で学び、意識を変えていくのは大変なことだったでしょうね。そうやって家具が作られ始め、その後どのように仕事を広げていかれたんでしょうか。


池田:まずは助けてくれたのは松本の人たちです。松本に民藝協会ができてインテリの集まりだった民藝運動に、実践者として池田三四郎が参加したので、「一生懸命にやっているから、助けてやらなきゃならないだろう」と少しずつうちの家具を飲食店や宿泊施設、個人の家で使ってくれるようになりました。そして柳先生以下、民藝運動の同人の方々がネットワークとして機能してアドバイスをくれたり買ってくれたりして、助けてくれた。研究を重ねて少しずつ物が良くなると、民芸展や地元の美術展に出展できるようになり、ブラッシュが重ねられました。そうしているうちに、東急百貨店日本橋店の前身である白木屋さんが信州物産展をやることになって、展示できることになったんです。


直人:それが東京で展示する初の機会だったんですね。


池田:そうなんです。気合を入れて英国式のバタフライのテーブルとラッシチェアを出展すると、初日に棟方志功さんが買ってくれたんです。ただそれには実は後日談があって。私は縁があって棟方さんの息子さんで役者の巴里爾さんの奥さんが今お住まいのお宅に何度か伺う機会を得たのですが、そこに棟方さんが買ってくださったテーブルがあったんですよ。で、奥さんが言うんです。「おじいちゃんから聞いているんだけれど、これを買った時には大変だったのよ」って。


志穂:何があったんですか?



池田:大きすぎて玄関からも窓からも入らなかったんだって。そうしたら棟方さんは怒っちゃって。机も入らないような窓を作った大工が悪いと言いだして、大工さんを呼んで窓を壊して入れちゃった。めちゃくちゃな話でびっくりしましたよ。でも、みなさんがそうやって買って、助けてくれたんですよね。


志穂:ははは。人の繋がりが重要だったのですね。




池田:それと同時に、時代が動き出したのもあった。経済成長に入って消費が喚起されてきたんです。人々の暮らし方がどんどん変わっていく中で、百貨店さんとの取引が始まり、販路が広がりました。ただ、本来、手仕事におけるものづくりは、一つ一つばらつきがあるのが普通です。仕事の勢いとしてカンナの跡が残ったりするのも味わいがありました。でも百貨店で販売するとなると、品質を求められます。それに合わせていく努力は必要だったんですよね。







[ Vol.3 ] に続く...

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