N/OH

2022/04/01 13:20

N/OH - LEDGE.  #04

ノウレッジ・ノウの心得。



[Vol.1] 松本民芸家具の池田素民さんに聞く「今あるものを生かすこと」

[Vol.2] 松本民芸家具の池田素民さんに聞く「職人の誇りを取り戻しながらの民藝運動」

[Vol.3] 松本民芸家具の池田素民さんに聞く「反復運動の中で自分の物差しを持つこと」

[Vol.4] 松本民芸家具の池田素民さんに聞く「日本のものづくりの危機」

[Vol.5] 松本民芸家具の池田素民さんに聞く「絶対的な美とは何か」



 ひとやものとの出会いによる相互作用、情報伝達、意思疎通。そのなかには、たくさんの「こたえ(答え・応え)」があります。わたしたちの作品は、そういったさまざまなものごととの出会いが織りなす揺らぎから生まれます。その揺らぎの「素」となる出会いを垣間見ていただけたら。そんな思いで始めたのが記事シリーズ「N/OH - LEDGE(ノウレッジ)」です。

 今回は、松本民芸家具の池田素民さんとの出会い。松本民芸家具は、大正から昭和にかけて柳宗悦らを中心に提唱された民藝運動を正統に受け継ぎ、ものづくりをしています。松本民芸家具の3代目にあたる池田さんに、N/OHアートディレクターの宮脇志穂とクリエイティブディレクターの増元直人、そしてカメラマン・デザイナーのマーティンの3人が、日本のものづくり、民芸の重視する生き方、絶対的な美の源泉などさまざまなお話をお聞きしました。今回はその4回目です。


[構成/執筆: フェリックス清香]







[Vol.1] 松本民芸家具の池田素民さんに聞く「今あるものを生かすこと」



宮脇志穂(N/OHアートディレクター、以降 志穂):本日はお時間をいただき、ありがとうございます。ずっとお話をお伺いしたかったので、とてもうれしいです。池田さんは3代目で、おじいさまが松本民芸家具を創業なさったんですよね。どういった経緯で始められたのでしょうか。



池田素民さん(松本民芸家具、以降敬称略):私の祖父で松本民芸家具の創業者の池田三四郎の生家は松本で呉服屋を営んでいたのですが、三四郎自身は最初は東京の京橋で写真館をやっていたんです。ところが戦争が起こり、戦局が悪化するにつれて、東京にいるのが危なくなりました。ちょうどその頃、松本の呉服屋を継いだ長男が、軍の依頼を受けて格納庫などを木材で作る軍需産業の仕事をすることになったので、三四郎に工場長をやってくれないかといってきていた。すでに家族は松本に疎開していたのもあって、三四郎はそれを引き受けたんです。写真館時代に東京電力のダム工事の記録写真を撮ったりしながら、少しずつ建築の知識を蓄えていた、ということもあったのでしょう。



増元直人(N/OHクリエイティブディレクター、以降 直人):呉服屋さんのお生まれで、最初は写真館。そして成り行きで建築のお仕事をなさったのですね。


池田:三四郎が松本に来た翌日が関東大空襲だったそうですから、運命の分かれ道だったんでしょうね。それでその仕事に工場長として携わって、職人さん達とともに昼間は建材として間伐材を使って構造物を作る仕事をしながら、夜になると木材を使ったミサイルを作るような研究もしていたらしいです。そのミサイルは結局、日の目を見ないで終戦を迎えたそうなんですが。


マーティン(N/OHカメラマン・デザイナー、以降 マーティン):終戦を迎えると、職人さんを抱えているのに軍需産業での仕事はなくなってしまいますね。


池田:戦後の産業復興で住宅の需要もあったので、仕事自体はあったらしいです。ただ、戦後は急速にハイパーインフレになってしまった。仕事をしてもすぐにお金の価値がなくなってしまうような状況で、最後は財産を差し押さえられるような状況になってしまった。どうしようと悩んでいるときに、三四郎の小学校の同級生で早くから民藝運動に参画していらした丸山太郎さんという方が、「民藝という世界があって、これから日本を立て直していくのに大事なものかもしれない。今度京都で柳宗悦先生を中心とした集まりがあるから、記録写真を撮る係としてきみも一緒にこないか」と誘ってくれて、ついていったそうなんです。昭和23年の第二回日本民芸協会全国大会への誘いでした。


志穂:そういうきっかけだったんですね! どんな印象を持たれたんでしょうか。


池田:どうやらそのときに柳先生は、「美の法門」というお話をなさったようです。三四郎はその後、民芸について書籍をたくさん残していて、私たちは今それを読んで指針としているわけですが、そのなかに「柳先生との出会いによって自分は新たな目的を得た。転機になった」と書いてあったから、具体的にはどんな話だったのかを聞いてみたんですよ。



志穂:なんとおっしゃいましたか?



池田:「何を話しているのか、さっぱりわからなかった!」って!(笑)


一同:ははは。難しいですよね。


池田:ただ、そこにはさまざまな方が集まっていたそうです。財界、小説家、芸術家、一般の人。世の中の人がみな、明日の自分の生活をどうやりくりするかに必死になっているというのに、その人達はおそらく未来の、みんなのためになることを必死になって話していた。戦争に負けて友達にも死なれ、目的を見失っていた三四郎は、その姿を見て思うんです。「生き残った自分には何か役目があるはずだ。この目の前にある世界はひょっとすると周りの人の役に立つのかもしれない。この世界に飛び込んでみよう」と。それで、いきおい柳先生に門派に入れてくれるように頼むんです。


志穂:つまりその時点では、家具作りの技術も民藝運動の知識も何もない状態ですよね。それでも家具作りに飛び込んだんですね! たしか池田三四郎さんが39歳のときでしたね。


直人:戦争もあったし乳幼児死亡率も今とは違う時代ですけれど、平均寿命が45歳以下の時代ですよね。すごいなぁ。それで柳宗悦先生はなんとおっしゃったのでしょうか。


池田:ちょうど同時期に、松本市役所の商工課に目先の利く人がいて、戦後の松本の産業復興に民藝運動を絡めようとしていたんです。松本には木工、生糸、竹細工も伝統があるからそういった手工芸を主軸として産業復興を図ろうと。その人が柳先生にアドバイスを求めていたので、柳先生は松本のことをご存知だった。それで、三四郎に「松本には全国に秀でた木工の伝統があるから、それを生かしたらどうか。伝統というのは今の時代の人のためではなく、過去の人たちが積み上げてきたもので、未来の人たちに必ず役に立つから残さなければいけないのだ。今まさに伝統の火が消えようとしているから、もう一度その火を灯して木工の仕事をやってみたらどうだ」と示唆を与えてくれたんですね。それで「そうだ、やるぞ」と松本に帰ってきて、家具屋になってしまったんです。


マーティン:戦争で死なずに生かされ、軍需産業のお仕事の時にも木材で格納庫やミサイルまで作るお仕事をなさっていたから、職人さんがいた。そこに民藝運動と家具作りというヒントがあった。時代の波に翻弄されながらも、池田三四郎さんは自分のところにあるものを持っているものを活かして松本民芸家具を創業なさったんですね。


直人:でも、簡単なことではなかったのでしょうね。


池田:そうですね。松本の木工の伝統は畳の上の家具、つまり和家具。でも和家具作りはすでに戦前から衰退し始めていたので、いろいろ悩んだと思いますよ。





[ Vol.2 ] に続く...

https://www.n-oh.com/blog/2022/02/25/145618





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